心理学を身近なところから解説してくれる非常に面白い内容でした。
一度、階段を降り始めたら、逆方向に判断を覆す事が非常に難しいという事を科学的に解説してくれてます。
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なぜあの人はあやまちを認めないのか 単行本 – 2009/3/20
日常的な出来事から、夫婦間の言い争い、政治家の言動、嘘の記憶や冤罪まで――誰もが陥りがちな自己正当化の心理メカニズムを、心理学者のコンビが豊富な実例を交えながら平易に解説。
- 本の長さ348ページ
- 言語日本語
- 出版社河出書房新社
- 発売日2009/3/20
- ISBN-10430924470X
- ISBN-13978-4309244709
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商品の説明
著者について
アメリカの社会心理学者。多くの新聞・雑誌に論説や書評を執筆する一方、専門家やビジネス界のトップ、学生など多岐にわたる人々に向けた講演活動も精力的に行なっている。
登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (2009/3/20)
- 発売日 : 2009/3/20
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 348ページ
- ISBN-10 : 430924470X
- ISBN-13 : 978-4309244709
- Amazon 売れ筋ランキング: - 362,952位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年9月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日常生活の中で心に置いておくと優しい人間関係がつくれる指南書のような本だなと思った。とても好きな本だ。人に薦めたい本。
2016年12月25日に日本でレビュー済み
アメリカの社会心理学者、キャロフ・タヴリスとエリオット・アロンソンが書いた、言い訳と自己正当化の心理学の本。夫婦、友人同士の諍いから、国家間の紛争まで、人間同士が陥る心理状態について、実例を挙げて分かり易く解説している。
キーワードは、「不協和」と「自己正当化」。人間は常に「自分は正しく立派な人物だ」という認識を持って生きている。ところが何かの過ちや失敗をしでかして批判されると、「自分は正しい人物」という認識と「間違いを犯した愚か者」という認識の間に不協和が生まれる。この不協和は非常に不愉快なので、人間はそのまま抱えていることは難しい。脳はこの不協和を何とか解消しようとする。その方法が自己正当化だ。
この本には人間がいかに必死に、また無意識に自己正当化を図り、過ちを広げて引き返せなくなっていくかについて具体的に書かれている。
1995年強制収容所での記憶を綴ったビンヤミン・ヴィルコミルスキーの「断片」が偽書だった事実や、宇宙人に誘拐されたと証言する人たち、1980年代にアメリカで大流行した性的虐待の記憶を呼び戻すという回復記憶療法にかかわった医療関係者、自白を強要する警官達、こういった人たちが最初の小さな間違いを訂正することができずにドンドン深みに嵌っていく。
その姿を客観的に批判するのは簡単だが、当人たちに間違ったことをしているという意識は全くなく、善意に、一生懸命自分のなすべきことをなしているつもりで、実は自己正当化に従っているだけだという事実に驚かされる。
もっとも身につまされるというか、耳が痛いのは、夫婦の諍いについて書かれた章だ。「愛を殺すもの」と題された第6章にはハッキリ書かれている。
「誤解も対立も性格の相違も、激しい喧嘩さえも愛を殺しはしない。愛の息の根を止めるのは、自己正当化である」
「結婚生活を徐々に蝕んでいくのは、私たちが何をしたかではなく、どんな人間であるかを擁護する、もっと深刻な自己正当化であり、これには二つの言い方がある。「私は正しくて、あなたは間違っている」と、「私が間違っていたとしても、お気の毒さま。私はそいういう人間なのだもの」である」
ここに書かれている夫婦のエピソードは、世界中どこにも転がっているが、どうしようもなく悲しい話だ。
最後にこの人間の性ともいうべき自己正当化をどうすればいいのかが書かれているが、それは素晴らしく目から鱗の巧い方法があるわけではない。結局過ちを犯したら、それを認めるしかないのだ。
「人が悔い改めたり、別の人格に生まれ変わったり、突然に翻意したり、急に目覚めたりして、すっくと背を伸ばしたかと思うと、あやまちを認め、正しい行いをした・・・などという奇跡が起きるのをイライラしながら待ってもムダだ。たいていの人間や組織は、あやまちを正当化し、それまで通りにやっていける便利な方法で不協和を減らせるなら何でもしようとする」のだ。
それを改めるには、社会的な大きな事柄、例えば司法的取り調べのすべてを録画するとか、外部組織による監視や是正を取り入れるといった方法が考えられる。
社会的な仕組みはお役所に任せるとして、日常生活の改善方法に関するくだりはちょっと面白かった。
「家庭内でけんかが起きるたびに、いとこや姻戚一族でつくった外部審査委員会を招集して判定してもらおうか、親が10代の息子や娘を問い詰めるときは必ず録画を?いや、こうした個人的な関係においては私たちは自力で奮闘しているのであり、だから自分を知る必要ある」
結局、自分を知って、「他人を観察でもするように自分の行動を批判的かつ冷静に眺め、次には自己正当化が始まり、それがさらに頑なな行動に繋がっていく連鎖を断ち切る」しかないようだ。「何かを感じるのとそれにどう反応するかの間に、小さな空き時間を設けるすべを覚え、一瞬考えてみる癖もつくだろう」とあるので、やっぱりムカッと来たら「10くらい数を数える」といったありきたりの方法しかないのかもしれない。
最後に本ではあやまちを認めた人が実は称賛されることを示し、人間個人に本格は、あやまちをどれだけ犯さなかったかで決まるのではなく、あやまちの後で何をしたかで決まると結ばれている。
キーワードは、「不協和」と「自己正当化」。人間は常に「自分は正しく立派な人物だ」という認識を持って生きている。ところが何かの過ちや失敗をしでかして批判されると、「自分は正しい人物」という認識と「間違いを犯した愚か者」という認識の間に不協和が生まれる。この不協和は非常に不愉快なので、人間はそのまま抱えていることは難しい。脳はこの不協和を何とか解消しようとする。その方法が自己正当化だ。
この本には人間がいかに必死に、また無意識に自己正当化を図り、過ちを広げて引き返せなくなっていくかについて具体的に書かれている。
1995年強制収容所での記憶を綴ったビンヤミン・ヴィルコミルスキーの「断片」が偽書だった事実や、宇宙人に誘拐されたと証言する人たち、1980年代にアメリカで大流行した性的虐待の記憶を呼び戻すという回復記憶療法にかかわった医療関係者、自白を強要する警官達、こういった人たちが最初の小さな間違いを訂正することができずにドンドン深みに嵌っていく。
その姿を客観的に批判するのは簡単だが、当人たちに間違ったことをしているという意識は全くなく、善意に、一生懸命自分のなすべきことをなしているつもりで、実は自己正当化に従っているだけだという事実に驚かされる。
もっとも身につまされるというか、耳が痛いのは、夫婦の諍いについて書かれた章だ。「愛を殺すもの」と題された第6章にはハッキリ書かれている。
「誤解も対立も性格の相違も、激しい喧嘩さえも愛を殺しはしない。愛の息の根を止めるのは、自己正当化である」
「結婚生活を徐々に蝕んでいくのは、私たちが何をしたかではなく、どんな人間であるかを擁護する、もっと深刻な自己正当化であり、これには二つの言い方がある。「私は正しくて、あなたは間違っている」と、「私が間違っていたとしても、お気の毒さま。私はそいういう人間なのだもの」である」
ここに書かれている夫婦のエピソードは、世界中どこにも転がっているが、どうしようもなく悲しい話だ。
最後にこの人間の性ともいうべき自己正当化をどうすればいいのかが書かれているが、それは素晴らしく目から鱗の巧い方法があるわけではない。結局過ちを犯したら、それを認めるしかないのだ。
「人が悔い改めたり、別の人格に生まれ変わったり、突然に翻意したり、急に目覚めたりして、すっくと背を伸ばしたかと思うと、あやまちを認め、正しい行いをした・・・などという奇跡が起きるのをイライラしながら待ってもムダだ。たいていの人間や組織は、あやまちを正当化し、それまで通りにやっていける便利な方法で不協和を減らせるなら何でもしようとする」のだ。
それを改めるには、社会的な大きな事柄、例えば司法的取り調べのすべてを録画するとか、外部組織による監視や是正を取り入れるといった方法が考えられる。
社会的な仕組みはお役所に任せるとして、日常生活の改善方法に関するくだりはちょっと面白かった。
「家庭内でけんかが起きるたびに、いとこや姻戚一族でつくった外部審査委員会を招集して判定してもらおうか、親が10代の息子や娘を問い詰めるときは必ず録画を?いや、こうした個人的な関係においては私たちは自力で奮闘しているのであり、だから自分を知る必要ある」
結局、自分を知って、「他人を観察でもするように自分の行動を批判的かつ冷静に眺め、次には自己正当化が始まり、それがさらに頑なな行動に繋がっていく連鎖を断ち切る」しかないようだ。「何かを感じるのとそれにどう反応するかの間に、小さな空き時間を設けるすべを覚え、一瞬考えてみる癖もつくだろう」とあるので、やっぱりムカッと来たら「10くらい数を数える」といったありきたりの方法しかないのかもしれない。
最後に本ではあやまちを認めた人が実は称賛されることを示し、人間個人に本格は、あやまちをどれだけ犯さなかったかで決まるのではなく、あやまちの後で何をしたかで決まると結ばれている。
2015年4月10日に日本でレビュー済み
何故あなたは過ちを認めないのでしょう。
普通の人は、過ちを認められないそうです。
過ちを認められるという事は、凄い人なのかも。
機能と構造を知って、自覚です。
普通の人は、過ちを認められないそうです。
過ちを認められるという事は、凄い人なのかも。
機能と構造を知って、自覚です。
2009年8月10日に日本でレビュー済み
なぜ人はみっともなく言い訳をしたり、追い詰められたときに突然とんでもない嘘をついたり、都合の良い方向に現実を歪めて認識したり、後からストーリーを組み立てて記憶を改竄したりするのかを説明した本。かなり強烈。
この本で一貫して用いられているのは「認知不協和理論」「自己正当化」のふたつ。このふたつで全てを説明している。コンパクトだ。その説明内容は自分の実体験や、読んだ本(カーネギー、加藤諦三)に書かれていたこととも矛盾しなかった。
ただ、著者はちょっと科学ぶりすぎだとも思った。著者らはつまり「フロイト教は宗教で心理学は科学なんです!」と言いたいのだろうが、そうは問屋がおろさん。「認知不協和」が器質的にどのような過程で発生するのかについての説明がない。(おそらくまだわかっていないのだろう)
あと、アメリカが侵略戦争をやった後に作る平和主義戦争映画みたいな、アメリカンの認知不協和解消のためのヒューマニズムが見え隠れしていた。日本人からすると違和感がある。そこらへんは目をつぶって読んだ。
この本で一貫して用いられているのは「認知不協和理論」「自己正当化」のふたつ。このふたつで全てを説明している。コンパクトだ。その説明内容は自分の実体験や、読んだ本(カーネギー、加藤諦三)に書かれていたこととも矛盾しなかった。
ただ、著者はちょっと科学ぶりすぎだとも思った。著者らはつまり「フロイト教は宗教で心理学は科学なんです!」と言いたいのだろうが、そうは問屋がおろさん。「認知不協和」が器質的にどのような過程で発生するのかについての説明がない。(おそらくまだわかっていないのだろう)
あと、アメリカが侵略戦争をやった後に作る平和主義戦争映画みたいな、アメリカンの認知不協和解消のためのヒューマニズムが見え隠れしていた。日本人からすると違和感がある。そこらへんは目をつぶって読んだ。