本書は、レーニンの革命思想の根底にある彼の「唯物論」を熱くまた明解に語るものである。
レーニンの「唯物論」、それは「ドリン・ドリン」であり(第1章)、彼の「笑い」であり(第2章)、彼の「素朴さ」(第4章)である。言い換えれば、それは思考からも客観からも過剰した、なにものかであるレーニン的「物質」のことであり(第2章)、それは差異そのものであるヘーゲルの「精神」でもあり(第3章)、「ピュシス=ゾーエ」の運動であるはじまりの弁証法でもあり(第4章)、ヤコブ・ベーメの「三位一体論」の、ヘーゲルのなかから出現したものがヘーゲルを無底にむけて開いていくものでもあり(第5章)、グノーシスとしての「党」の在り方でもある(第6章)。これだけでは、要を得ないと思うが、詳しくは是非本書に当たってほしい。それぞれが何を語ろうとしているのかが、明解に書かれているからである。
結論的にいえば、「唯物論のための方法序説」で語られているように、「唯物論」とはつまるところ「表象の系によって排除されてある現実(リアルなもの)に、意識が直接に手を触れていくための作業ないし探究」のことである。つまり「表象」(represantation) の外部に触れようとする試みである。プラトンの「イデア」やカントの「物自体」をたてるのではなく、まごうことなく「いま、ここ」にあるものをそのものとして捉える感受性のことである。それは、ドゥルーズのいう「愚鈍」とも通底するものでもある。
蛇足ではあるが、蓮實重彦の『魂の唯物論的擁護のために』に掲載されている中沢新一と蓮實重彦の対談も興味深い。
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はじまりのレーニン (精神史発掘) 単行本 – 1994/6/1
中沢 新一
(著)
レーニンの本当の独創について語るのは,今だ.その笑いについて,生命の原初の律動に触れる唯物論について――ヘーゲル,ベーメ,そしてグノーシス主義へ.レーニンという思想を掘る.
- 本の長さ223ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1994/6/1
- ISBN-104000037315
- ISBN-13978-4000037310
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
ようやく私たちはレーニンの思想について話しだせる。読者はただレーニンがよく笑い、動物や子供にさわること、音楽を聴くことが好きだったことだけを予備知識としてこの本を読んでほしい。そうすれば彼の独創性が理解できる。
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1994/6/1)
- 発売日 : 1994/6/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 223ページ
- ISBN-10 : 4000037315
- ISBN-13 : 978-4000037310
- Amazon 売れ筋ランキング: - 954,519位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 133位ロシア史
- - 27,156位哲学・思想 (本)
- - 136,760位ノンフィクション (本)
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著者について
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1950年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。現在、多摩美術大学芸術人類学研究所所長。思想家。著書に『チベットのモーツァルト』(サ ントリー学芸賞)、『森のバロック』(読売文学賞)、『哲学の東北』(斎藤緑雨賞)、『フィロソフィア・ヤポニカ』(伊藤整文学賞)など多数ある(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『カイエ・ソバージュ』(ISBN-10:4062159104)が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年12月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2017年7月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
23年前に読んだのだが、名著だと思う。
当時、この本は結構批判されていて「レーニンは脳の病気だからよく笑ったのだ」(笑)というものもあった。
「ヘーゲルは観念論者でレーニンが唯物論者」というマルバツ式の思考では、この本は理解できないと思う。
(推論だが、よく読まずに、もしかしたら全然読まずに「批評」したのではないか?)
レーニンですら絶対ではない。
この世に絶対的なものなど、存在しないのだから。
当時、この本は結構批判されていて「レーニンは脳の病気だからよく笑ったのだ」(笑)というものもあった。
「ヘーゲルは観念論者でレーニンが唯物論者」というマルバツ式の思考では、この本は理解できないと思う。
(推論だが、よく読まずに、もしかしたら全然読まずに「批評」したのではないか?)
レーニンですら絶対ではない。
この世に絶対的なものなど、存在しないのだから。
2020年6月22日に日本でレビュー済み
ヘーゲルは、自分の哲学は、二千年を超える西洋形而上学の歴史を総決算するものだと考えていたという。レーニンは、そのヘーゲルの哲学を唯物論によって乗り越えるとした。レーニンの唯物論では、物質を、客観的実在であるという性質、我々の意識の外に存在するという性質としている。そして、物質は自己運動しながら、自然と生命と意識をつくりだす。ヘーゲルの「精神」を乗り越えたように思われる一連の説明は、まさに、はじまりというのに相応しく、迫真に迫っている。
2007年9月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この書物の内容は『はじまりのレーニン』というタイトルによく現れていると思う。中沢はレーニンを単に賛美しているわけでもなく、ましてや全ての思想はレーニンにおいて体現されていると主張しているわけでも本質的にはない。むしろ、レーニンを入口にすることで、西欧が数百年にわたって抑圧してきた別の思想の系譜を辿りなおすことができる、ということなのではないだろうか。中沢によれば、レーニンの「唯物論」の中心にある「物質」という概念は、「観念論」とされるヘーゲルの「精神」と極めて似た意味を担っているという。レーニンは常にヘーゲルの論理学を学び続けていたのだ。さらに、中沢は前ソクラテスの自然学者たちの思索とプラトン以後の形而上学との対比にレーニンとヘーゲルを重ねることで、レーニンの「物質」という概念が「自然」の原初的な能産性により配慮していると指摘し、ヘーゲルとの差異を見る。この古代ギリシアの自然学者との対比を経て、さらに中沢はレーニンの思想的背景に、ヘーゲルを超えて、ヘーゲル自身が依拠し(かつ、抑圧し)たヤコブ・ベーメの三位一体論を見る。ここで明らかになるのは、いわゆる「フィリオクエ問題」と呼ばれる東西教会が決定的な形で対立したモーメントである。この神学論争により三位一体論は大きく変容することになった。西欧において三位一体論は「父と子」と「聖霊」の二項の論理へと移し替えられ、そこに「普遍」と「特殊」からなる中世の形式論理学が、そしてその後の西欧の哲学が形成されたと中沢は大胆に論じる(幾分、大胆過ぎるが、看過できない指摘だと思う)。この西欧の伝統に対して、レーニンは、というよりもドイツのベーメを端緒とする思想は、本来の三位一体論を回復する役割を果たしたという。二十世紀におけるヘーゲルの直・間接的な影響を考えれば、独思想における三位一体論の復活が、単に独特殊の問題ではないことは明らかだ。レーニンから「はじめる」ことで、私たちはヨーロッパのもう一つの思想的系譜を辿ることができることを中沢は冴えた筆致で示している。軽快な装いながら、中沢の本の中で最も懐が深いものの一つだと思う。
2014年12月26日に日本でレビュー済み
冷酷なロシア共産党のリーダーにして、理論家でもある、従来のレーニン像を覆す、破天荒な書。
レーニンだけでなく、古代ギリシャ思想から、キリスト教神秘主義、パスカル、ヘーゲルなど、
レーニンの思想形成に絡めて、ヨーロッパ哲学史を独自の視点で概観している。
それにしても、中沢の文章は、実にわかりやすくよみやすい。
あまりに明快なので、眉に唾をつけて読みたくなってくる。
中沢の本は、フィクションだと思って読んだ方が、いいのかもしれない。
レーニンだけでなく、古代ギリシャ思想から、キリスト教神秘主義、パスカル、ヘーゲルなど、
レーニンの思想形成に絡めて、ヨーロッパ哲学史を独自の視点で概観している。
それにしても、中沢の文章は、実にわかりやすくよみやすい。
あまりに明快なので、眉に唾をつけて読みたくなってくる。
中沢の本は、フィクションだと思って読んだ方が、いいのかもしれない。
2014年7月6日に日本でレビュー済み
書店で立ち読みして、呆れたものが未だに絶版にもならず、出ている。
既に、ソ連等と云う全体主義国家は、この世には存在しないし、連邦崩壊後に機密指定が解除された結果、レーニン神話は雲散霧消し、彼の冷酷で残忍極まる人格と、公私混同振り、同朋を残虐極まる手法で虐待し、惨殺した歴史、国家を私物化して人民を抑圧し支配した経過が明らかになっている。
中沢氏は、麻原を賞賛した人物だけに、大量虐殺願望があるのだろうか。 訳の分からない論理(?)を振り回して、反社会的人物を賞賛するのは、いい加減にした方が良い。 「はじまりのレーニン」と云う著書名は、「大量虐殺のはじまり」と変えた方が正解であろう。
マルクスもレーニンも、真面に労働したことも無い寄生虫だった。 駄法螺並みの屁理屈が通用する社会は、もう二度と来ない。
既に、ソ連等と云う全体主義国家は、この世には存在しないし、連邦崩壊後に機密指定が解除された結果、レーニン神話は雲散霧消し、彼の冷酷で残忍極まる人格と、公私混同振り、同朋を残虐極まる手法で虐待し、惨殺した歴史、国家を私物化して人民を抑圧し支配した経過が明らかになっている。
中沢氏は、麻原を賞賛した人物だけに、大量虐殺願望があるのだろうか。 訳の分からない論理(?)を振り回して、反社会的人物を賞賛するのは、いい加減にした方が良い。 「はじまりのレーニン」と云う著書名は、「大量虐殺のはじまり」と変えた方が正解であろう。
マルクスもレーニンも、真面に労働したことも無い寄生虫だった。 駄法螺並みの屁理屈が通用する社会は、もう二度と来ない。
2007年1月16日に日本でレビュー済み
この著作は、始まりの部分でトロツキーの『レーニン』を用い、一番最後でもう一度トロツキーの『レーニン』を用いている。その部分はよい。トロツキーのレーニン回想のみずみずしさ、おもしろさ、洞察力がよくわかる珠玉の文章がいくつか抜書きされているからだ。トロツキーの文章を通じてレーニンの魅力が伝わってくる。
だが、その最初と最後に挟まれた部分、すなわち中沢氏オリジナルの部分はいただけない。正直読み通すのがつらかった。事実関係も間違いが目立つし(あまりちゃんと調べずに書いているのか?)、レーニンの思想についても思い込みがすぎる。ほとんど関係のない二つ(ないし三つ)のものを言葉の魔術で強引に結びつける中沢節がいつものように炸裂しているだけだ。強引な関連づけという点では、むしろドミニク・ノゲーズの『レーニン・ダダ』の方がおもしろい。
とはいえ、レーニン全否定の時代に(今もさして変わっていないが)、あえて挑戦的にレーニンを積極的に評価しようとした姿勢はなかなかよい。レーニンは、どんなひどい欠陥や誤りがあったとしても偉大である。スターリンは、どんな偉大なことをしたとしても下劣である。この違いがわからない者は、歴史についても人間についても何もわからない者だ。
だが、その最初と最後に挟まれた部分、すなわち中沢氏オリジナルの部分はいただけない。正直読み通すのがつらかった。事実関係も間違いが目立つし(あまりちゃんと調べずに書いているのか?)、レーニンの思想についても思い込みがすぎる。ほとんど関係のない二つ(ないし三つ)のものを言葉の魔術で強引に結びつける中沢節がいつものように炸裂しているだけだ。強引な関連づけという点では、むしろドミニク・ノゲーズの『レーニン・ダダ』の方がおもしろい。
とはいえ、レーニン全否定の時代に(今もさして変わっていないが)、あえて挑戦的にレーニンを積極的に評価しようとした姿勢はなかなかよい。レーニンは、どんなひどい欠陥や誤りがあったとしても偉大である。スターリンは、どんな偉大なことをしたとしても下劣である。この違いがわからない者は、歴史についても人間についても何もわからない者だ。
2009年7月7日に日本でレビュー済み
レーニンを「跳ね続ける唯物論者」と呼びたくなった。跳ね続けるものを掴まえられたからこそ、4月テーゼのようにぶっ飛んだテーゼを引っさげ、結果的には未来(第二次ロシア革命)を手に入れられたのだ。その後いかに現実によって傷つけられ、現実を傷つけた(1000万農民の餓死のような!)としても、である。レーニンがマルクス、ヘーゲルを読み解き、その先にある源流に遡っていく様子は圧巻であった。悲惨なソ連に責任多とするにしても、死せる教条主義を振りかざし、政敵を葬り去ったスターリンと、レーニンの差異は「生命」にあると思う。レーニンの人殺しと、スターリンの人殺しは異質だ。そんなことまで考えた。